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ニンテンドーの伝説的ゲームクリエイターが「電卓で遊んでいる人」に受けた刺激


今のコンシューマーゲーム業界のBIG3といえば、「ニンテンドー」「SONY」「Microsoft」です。中でも任天堂は、世界中で人気のあるゲームを開発し続けています。

そんなニンテンドー製品の歴史について、海外YouTubeチャンネル「Flatlife」が解説していきます。




*Category:テクノロジー Technology|*Source:Flatlife,ニンテンドー,wikipedia

ニンテンドーが「花札」からテレビゲームに路線変更した決定的な成功


任天堂は、1889年に山内房治郎氏が「山内任天堂」として創業しました。山内氏は当初、手作りの花札を製造することからスタートしました。


1959年、「任天堂プレイングカード」に社名変更した任天堂は、ウォルト・ディズニーと契約を結び、ディズニーキャラクターをカードに使用するようになりました。

その数年後、社名は「任天堂」に短縮されました。任天堂という言葉が何を意味するのかは不明ですが、「運を天に任せる」なのではないかという説もあります。

その後、日本の家庭でカードゲームがあまり普及しなくなり、1964年には株価が900円から60円にまで急落し始めました。任天堂は多額の負債を抱え、山内氏も次の大きなものを見つけようと必死になっていました。


そこで、任天堂は新しい事業に投資することにしました。例えば、インスタント食の製造、タクシー・サービスなどです。

やがて任天堂は玩具市場に乗り出すことを決めました。そして1970年に日本初の電子玩具「任天堂ビームガン」を発売。これは後に「ダックハント」などのゲームに登場する、ファミコンのザッパーの先祖にあたります。


1972年には、アメリカのマグナボックスが、初の家庭用ゲーム機「マグナボックス・オデッセイ」を作りました。任天堂は、このゲーム機用のライトガンアクセサリーを開発・生産しました。その2年後、任天堂は「マグナボックス・オデッセイ」の日本での販売権を獲得しました。

テレビゲームの普及を目の当たりにした任天堂は、自社でゲーム機を作ることに取り組み始めました。1977年に発売された任天堂初の家庭用ゲーム機は、三菱と共同開発したものです。1977年に発売された「カラーテレビゲーム6」は、「6」という数字がゲームの数を表しているという、今では考えられないタイトルでした。


その後、「カラーTVゲーム15」「TVゲームレーシング112」「ブロックくずし」「コンピューターTVゲーム」などが発売されました。これらのゲームは、非常に単純なゲームでした。


同時に、任天堂はアーケードゲームの開発にも取り組んでおり、「ドンキーコング」や「マリオブラザーズ」など、後にゲーム機に移植される数多くのタイトルを手がけていました。


しかし、ニンテンドーのテレビゲーム路線への転換を決定づけたのは、1980年に発売された「ゲーム&ウオッチ」だといっていいでしょう。これは、任天堂が初めて携帯型電子ゲーム機に進出した製品です。液晶画面にゲーム1本と時計が表示されることから、その名がつけられました。


この「ゲーム&ウオッチ」は、複数のシリーズが作られました。例えば、2画面を搭載した「マルチスクリーン」や、後に任天堂の携帯ゲーム機で再現されることになる「クラムシェルデザイン」など、見た目が大きく異なるものもありました。


1991年まで、任天堂は「ボール」「パラシュート」「スヌーピー」など、約60種類のゲーム&ウォッチを発売しました。

ゲーム&ウオッチには、「GAME A」と「GAME B」という2つのモードがあります。「GAME A」はイージーモードで、「GAME B」はハードモードです。ゲーム&ウォッチは全世界で4340万台販売されました。

ちなみに、携帯ゲームの父とも呼ばれる伝説的なゲームクリエイターの横井軍平氏は、電車の中で退屈している人が電卓で遊んでいるのを見て、ゲーム&ウォッチを作ることを思いついたそうです。

ニンテンドー公式サイトによると、ゲーム&ウオッチで採用したチップは、電卓で使われているのと同じものだったとのこと。電卓で数字を表示する代わりに絵に置き換えることで、ゲームをつくっていました。

ゲーム&ウオッチは、手元で遊べる手軽さが受けてヒットし、ニンテンドーの携帯ゲームの歴史の大きな一歩目となりました。当シリーズの大ヒットとその利益により、任天堂は当時の70億円近い莫大な借金を完済でき、さらに40億円ほどの黒字となりました。

この利益がファミリーコンピュータの開発に投資されたことでも知られており、任天堂のテレビゲーム路線のきっかけを作った製品とも言えます。これがなければ現在のDSやSwitchも無かったかもしれないと考えると、感慨ぶかいモノがあります。


1985年、任天堂はNintendo Entertainment System、通称「ファミコン」を発売し、他社とは一線を画すようになりました。ファミコンは任天堂が海外で発売した最初の家庭用ゲーム機です。

日本国内では1983年にファミコンが発売されました。そして、1985年に任天堂は海外版として、ファミコンをベースに製造した「NES」をリリースし、多くの注目を集めました。「NES」は、ゲームや絵柄の違いはあっても、性能的にはファミコンと同じものです。


「NES」は、1983年の大恐慌の後、ゲーム業界の復活に貢献しました。そして、全世界で6,200万台を販売し、史上最長の生存記録を打ち立てたのです。ファミコンは、アメリカでは1995年まで、日本では2003年までサービスが続きました。

ファイナルファンタジー、悪魔城ドラキュラ、メトロイド、ゼルダの伝説など、任天堂で成功したゲームの多くはファミコンで生まれました。

ダックハントも大人気でしたが、4,000万本以上売れたファミコンで最も売れたゲームは、もちろん「スーパーマリオブラザーズ」です。

ファミコンが評価されたのは、シンプルでありながら、当時としては画期的なコントローラーを搭載していたことです。任天堂が十字キーを設計し、特許を取得するまでは、ジョイスティックが一般的な操作方法でした。現在ではジョイスティックが好まれる傾向にありますが、ドンキーコングのような2Dゲームをプレイするには十字キーの方がはるかに優れています。

ちなみに、ドンキーコングはジャンプする最初のゲームだったので、最初の真のプラットフォーマーと考えられています。


1989年、任天堂はカートリッジを交換できる携帯ゲーム機「ゲームボーイ」を発売し、プレイヤーにさらなる多様性を提供しました。ゲームボーイには、「スーパーマリオランド」「星のカービィ」「ポケットモンスター赤・青」「テトリス」などの人気タイトルが収録されており、携帯性と耐久性に優れ、現在も人気が続いています。


1996年に任天堂が発売した「ゲームボーイ・ポケット」は、小型・軽量化され、カラーバリエーションも豊富になりました。ゲームボーイ・ポケットは、初代ゲームボーイの緑がかったディスプレイではなく、白黒のディスプレイを搭載しました。しかし、電池の寿命は初代の15時間から10時間程度に減少してしまいました。


2年後、日本限定で「ゲームボーイライト」が発売されました。ゲームボーイの画面は暗いところでは見にくいため、ゲームボーイライトにはバックライトが搭載されました。


1998年には、「ゲームボーイカラー」が発売されました。ゲームボーイカラーは、カラフルな色で、その名の通りカラーでゲームを表示することができます。ゼルダの伝説やテトリスなど、カラーで再販されたゲームも多くありました。


また、「ポケモン金・銀」「スーパーマリオブラザーズデラックス」などもカラーで発売されました。ゲームボーイとゲームボーイカラーは合計で1億1870万台が販売され、大成功を収めたことは言うまでもありません。

ちなみに、1993年にロシアの宇宙飛行士であるアレクサンドル・セレブロフは、ゲームボーイを宇宙に持って行き、テトリスで遊んでいたそうです。そして、そのゲームボーイは地球を3,000回も周回したと言われ、後にオークションで1,220ドル(約16万円)で落札されています。


ファミコンの後継機として待望されていたスーファミは、1991年にアメリカで発売されました。「S」が「スーパー」を意味するようになったため、日本で1年前に発売されたファミコンも「スーパーファミコン」と呼ばれることになりました。


スーファミは16ビット機でありながら、処理能力が大幅に向上し、オーディオやカートリッジもより進化しました。


当時、任天堂とセガは「ビット戦争」と呼ばれる対決をしており、広告では互いにジャブを打ちながら、優れたゲーム機を持っていると主張していました。

最終的には任天堂が優勢となり、セガ・ジェネシスの3,500万台に対してスーファミは4,900万台を販売し、ライバルを上回る販売台数を記録しました。当時3番目に売れていたTurboGrafx-16は、1,000万台と大きく出遅れていました。


スーファミで登場したゲームは、初代マリオカートをはじめ、ファイナルファンタジー6、スーパーマリオワールド、スーパーメトロイド、ゼルダの伝説などの人気シリーズの続編もありました。

スーファミのコントローラーは、以前の長方形のデザインから丸みを帯びたエッジに変わり、コントローラーの前面にボタンが追加され、一新されました。


1995年には「バーチャルボーイ」が発売されましたが、商業的には失敗でした。なぜなら、VRヘッドセットのようなマウントディスプレイに頭を入れなければならなかったからです。この機能はゲームにまったくプラスにならず、ただの目新しさでしかありませんでした。


また、装着感は悪く、持ち運びもできず、価格も高価でした。そして、ゲームもフルカラーではなく、黒と赤の2色でした。他の任天堂機のカラフルなゲームと比べると、魅力がなかったのでしょう。

バーチャルボーイには、「マリオのテニス」「ワリオランド」「3Dテトリス」など、多くのゲームが搭載されました。しかし、ユーザーはヘッドセットをつけることによって、めまいや頭痛になってしまいました。その結果、バーチャルボーイはそれほどプレイされませんでした。


バーチャルボーイは史上最も売れなかったゲーム機の1つで、およそ77万台という販売台数でした。


その後、任天堂はカラーディスプレイを使用するとシステムが高価になり、画像も乱れやすくなると主張し、モノクロディスプレイを選択していきます。


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